【レビュー】かがみの孤城の原作を読んで【#かがみの孤城を語ろう】

レビュー

Bonsoir! 川古です。

僕は昨年末、素晴らしい映画と出逢いました。

それは12月に公開された、2018年本屋大賞受賞作でもあり、直木賞作家・辻村深月先生の小説を原作とするアニメーション映画「かがみの孤城」です。

映画『かがみの孤城』公式サイト
本屋大賞受賞・ファンタジーミステリーの最高傑作が待望の劇場アニメ化!2022年12月23日(金)全国公開

きっかけは他の映画作品の上映前に目にした宣伝トレーラー。

そこで初めて知り、なんとなく、本当になんとなく「観てみるか」程度のスナック感覚で後日劇場に足を運んでみました。

したらばですね…
鑑賞後、想定以上に、言葉に出来ない余韻が残り続けていることに気付いたんです。

この気持ちは一体何なのか。

その正体をつきとめるため、作品理解を深めるため、取材班(自分)は直感を信じて原作小説を購入し、読了しました(そのためにkindleを購入しました!)。

そして先日、2回目(上映中に急病で倒れた方がおり再訪したので厳密には3回目)を映画館で鑑賞してきました。

映画をリピートしたのは2017年公開の「傷物語〈Ⅲ冷血篇〉」以来です

しかも今回は1月2​0日​(金)から新たに本編エンドロール後にスペシャル映像が追加されたとのことで、新鮮な気持ちで観ることが出来ました!
(スペシャル映像=第一弾入場者特典のポストカード〈その後の風景〉をもとに作られた、登場人物のアフターストーリーを感じられる映像)

結論として…原作も映画も号泣してしまいました。
初回はポップコーン片手に観てた自分を全力で恥じましたね…

そして理解が深まったことで、余韻の正体も解りました。

今回は傑作「かがみの孤城」に関して、2回鑑賞済&原作読了の立場から、改めて自分なりにレビューをしてみたいと思います。

また本記事は映画および原作のネタバレを含みますので、これから読むor観る!という方はご留意いただけると幸いです。
(※重要な原作「エピローグ」のみ一応反転文字で伏せてあります!)

そのうえで先にオススメ出来ないのは歯痒いですが…これだけは声を大にして言います。

必ずあなたの心に残る作品になるので観てください。
そして「原作小説は絶対に読んだ方がいい」です。

原作をオススメする理由

著:辻村 深月 出版社:ポプラ社

まず「かがみの孤城」はこんな人にオススメ!

  • 繊細な人、HSPの人
  • 生きづらさを感じている人
  • 学校やコミュニティに居づらさを感じたことがある人
  • 変わっていると言われる人
  • いじめなどの辛い経験のある人

僕自身、結構該当する部分も多く、それが映画一回目鑑賞後、心を掴んで離さなかった余韻の正体に繋がります。

余韻の正体

原作を読んで深堀したことで、見えてきたことがあります。
それは「主人公のこころを含む孤城に呼ばれた者の多くがHSPなのではないか」ということです。

HSP=Highly Sensitive Personの略で、非常に繊細な気質を持つ人のこと。
以下の記事で触れているので、よろしければご覧ください。

かがみの孤城に招待された7人は、それぞれに理由があって、学校に通えていない子供たち(正確には雪科第五中学)。
事情は様々ですが、心に傷を負っていたり、居場所を見つけられなかったり、行く意味を見出せなかったりします。

物静かだけれど非常に共感能力や洞察力の高いこころ。
感情の浮き沈みが激しく些細なことで幸せを感じられるウレシノ。
家庭環境が複雑で自分に無関心になってしまったスバル。
好奇心が強く奔放なところもあるけど人一倍繊細なアキ。
好きなものへのこだわりが強く、ちょっぴり不器用なマサムネ。
人と違うことに頭を抱えて自分が解らなくなっているフウカ。
リオンは特殊だけれど、周囲に合わせすぎて気持ちを隠してしまったり。

僕は、割とみんなHSPの特色を持っている気がしているんですよね。
全員が全員ではないかもしれませんが、多くがケースの異なる繊細さを抱えているのではないかと考えています(少なくともこころは確実でしょう!)

シンプルに気丈な人は問題があっても、上手くやってしまったりしますし、少なくとも、皆違ったタイプの“変わり者”で、きっとそれが遠因として不登校に繋がっているのではないかな、と。

僕はとりわけ、こころの観察眼や心情描写が、まるで自分の事のように感じられてしまいました。
それからアキって、一見サバサバしててコミュ力高そうですよね。
でも多分いわゆるHSS型のHSPな気がしていて、僕も該当する疑いがあるので親近感があります。
(※僕は陽キャじゃないです)

HSS=High Sensation Seeking
アクティブに絡んできたりするのに打たれ弱かったりする…
こんな一見矛盾した人、周りにいませんか?

きっと同じような気質・特性を持つ方、この記事を開いてくれたあなたは、登場人物の誰かにきっと重なる部分があるはずです。

そして活字として取り入れることで、7人の所作や言動から個々の特性がより鮮明に感じられ、世界観が広がります。

僕自身がHSPなので、原作に触れたことで理解が深まり「あぁ、だからこんなにも後髪を引かれたのか…」と腑に落ちました。

それもそのはず、本作品は僕自身を映す“かがみ”だったんですから。

情報量の多さが共感を生む

一瞬で状況を視覚的かつ効果的に表現したり、映像にしか出来ない表現はあると思います。
ただ本が原作の作品は、情報量が非常に多く“読む”ことでしか解らないこともあるでしょう。

その時々で登場人物がどのような感情を抱いているかとか、所作に現れる機微、叙述トリック等。
また、よく咀嚼して初めて見えてくる緻密な心理描写やバックボーンってありますよね。

映画を観た時は、よくあるハートフルストーリーといった印象はありました。
しかしページをめくるほどに、想像以上に奥深いテーマを感じてきて、群像劇としての愛着も増してくる。

例えばふと発した一言に、一行説明が差し込まれるだけで、映像だけでは体感出来なかった一人一人の空白が埋まっていきます。
「あ、彼(彼女)は、こんな人間なんだ」というのが、ちょっとずつ見えてきて。
主人公のこころに対してだけではなく、他の人物に対しても、誰もが誰かしらに共感があるんじゃないでしょうか。

この辺りの、登場人物への共感度こそが作品の満足度にダイレクトに繋がる非常に大きいポイントだと思うんです。
少なくとも僕は原作に触れることで、それらをより深く味わうことが出来ました。

“こころ”をテーマにしている本作だからこそ、時間をかけてじっくりと寄り添うことで染み渡る温かさがあったんです。

作中でこころは「心の教室」という名前について、
ダブルミーニングになって恥ずかしく思っていたようですが…
ただこれ案外意図したネーミングなんじゃないかな、と思います
大丈夫、助け合えるよ!

原作にしかない展開、聞けない言葉

情報量の話にも直結してきますが、映画ではカットされたシーンがあります。
尺の都合もあり仕方ないのですが、このあたりに起因して展開もちょっとずつ違ったりします。

例えばですが…

  • 原作では孤城を訪れた初日、こころは一旦家へ逃げ帰る
  • 出入口となるそれぞれの鏡について、最初の時点での名札の有無
  • 原作ではゲームはマサムネがテレビを持ち込んでやっていた
    (電気のみライフラインが通じている点が重大な伏線になった)
  • こころがフウカの誕生日プレゼントのため、
    カレオ(こころの家の近くにあるショッピングモール)に必死になって向かうシーン
  • アキが現実で強姦されそうになって逃げた後、こころ達に発見されるタイミング

etc…

特に、原作でこころがマサムネのゲームを介して打ち解けるシーンや、フウカのためにこころが外出しようとするも結局辿り着けなくて感じた思い(そこで得た簡素なチョコレートが、実はフウカが育った環境にとっては非常に特別なものだった等)。
これらも映画でカットされたのが残念なエピソード。

最後のお別れ前の片づけシーンでの会話等、映画でカットされたのが悔やまれる箇所が多くて…

それから本作では、第二第三の主人公とも言えるほどアキが重要なキャラですよね。
彼女の所々に垣間見える嫌みっぽいセリフや、ルール違反を犯すまでの葛藤を表すような、映画では解りにくい描写があるのも注目です。

アキに限った話ではないですが、ちょっとした呟きや幕間の日常からも読み解ける人間性が、原作には込められています。

上記の他にも、絶妙な塩梅で伏線やミスリードが散りばめられていたりするので、大切に読み進めてほしいですね。

最も重要なシーン

ぶっちゃけここが一番大きいといっても過言ではないです。
ページ数としては全体で見れば僅かですが、映画では触れられていない部分であり、ここだけでも原作を読む価値があります。

それがアキ視点のエピローグ。

以下に所感と概要をば!
※この部分は圧倒的に最後の余韻に繋がってくる&原作を薦めたい理由の最たる部分なので、映画だけ観ている人のために念のため伏せます!(枠内反転文字で表示可能)

・アキこと井上晶子と、鮫島先生のその後の話
・鮫島先生は本編では、祖母の葬式に来ていた嫌味を言う「親戚のおばさん」として描かれる
=実は嫌味はミスリードで、晶子を想って発した優しい言葉だった!
・鮫島先生は晶子の祖母と懇意にしており晶子の親代わりであり恩人
・彼女が作った団体が後に「心の教室」となる
・晶子の面倒を見ると言い、進路として一年留年を薦めたのは鮫島先生
・晶子は乗り気じゃなかったが、何故か急に「誰かを頼っていい」と、自分は一人じゃないと気付き、頑張ろうと決意する
=かがみの孤城で過ごした経験が晶子を駆り立てた!
・この頃から重要な局面で度々「誰かに腕を引かれるような強い痛み」を感じるようになる
=こころが願いの鍵で救ってくれた時の消えたはずの記憶が、彼女を未来へと導いてくれた!
・元々大学で教育学部を履修していた晶子だったが「自分がなりたいのはひょっとしたら普通の教師とは違う」と思い至る
・活動の中で運命的に出逢った“喜多嶋先生”という医師と結婚し、後の姓に変わる
・喜多嶋先生の病院に理音の姉の実生(オオカミさま)が入院しており、晶子とはそこで出会い勉強を教えていた
=オオカミさまにとってアキもまた特別だったから、窮地の際も助けたのでは?
・こころが初めて「心の教室」を訪れた運命の時、全てが一つの線で繋がる

アキがいかにして、こころ達の待つ未来へたどり着けたのか。
前を向いて生きていけたのか。

最後まで読み進めて此処に辿り着いた時、思わず溜め息が出てしまいました…
これから読む予定の方は、是非自分の目で確かめてみてください!

かがみの孤城の経験が無ければ未来が変わり、皆どこかで諦めてしまっていたんだと思います。

だから一人だった彼ら彼女らが“助け合えた”ことが証明された時、心底嬉しくなりましたし、創作の枠を超えたメッセージとして確実に僕の胸に届きました。

先に原作を読んでたら…また違った発見があったかも
いやしかしエピローグは映画でもやってほしかった

別の時間に生きる7人。
自分達なら、ひょっとして助け合えるかもしれない…

一度は命を投げ出した一番の“問題児”だったアキが救われて、そんなアキが今度は未来へこころ達を助けにいく…「今度は、私がその子たちの腕を引く側になりたい」

この流れ、尊すぎません?

かがみの孤城はあくまでオオカミさまがリオンを想って作られたわけですが、それが結果としてみんなに希望を与える奇跡になったんですよね。
果たして齎された結果は、オオカミさまが「善処した」からなのか…。

一種のタイムパラドックスものだと言えますが、ここまで優しさに満ちたストーリーは久々で。

「私たちは助け合える」「大丈夫、大人になって」というフレーズの力強さと温かさ。

そして改めて、映画の公式サイトにあるキャッチコピー「君を、ひとりにはしない。」という言葉の重みをひしひしと感じました。

残念だった点

©2022「かがみの孤城」製作委員会

僭越ながら、原作と比較して映画で感じた残念な点も挙げさせていただきます。
上述の原作の魅力と対になるポイントですが、愛ゆえの所感と捉えていただけますと幸いです!

上映時間(ボリューム)

これは映画における永遠の命題だと思います。
「かがみの孤城」は尺としては120分程で、人によってはこれでも長いと感じるかもしれません。
ただ本作はストーリー上、約一年の期間が描かれています。
+α個々の時間の経過等、想いを馳せてみると、もっともっと長いとも言えますよね。

個人的な感想の変遷としては…
一回目鑑賞⇒色々省略されたんだろうなぁ

原作読了⇒あれ、思っていたほどでもない?


二回目鑑賞⇒やっぱりちょっと短い!

といった感じです(笑)

最終的に人が別れを迎える物語の場合、如何に個々の関係性や過ごした時間を濃密に描けるかどうかで、最終的なカタルシスの度合いが段違いになってきます。
映画はこの辺りどうしてもすっ飛ばした感じが否めず、更に原作にしか無かったやりとりを慮ると、悔しさが残ります。

それと登場人物間の呼び方ですが、原作だと、ぎこちなくもほぼお互いに呼び捨てになってくるんですけど…このあたり映画の方が若干曖昧なんですよね。
呼び方=時間が足らないことにより縮められなかった心の距離のような気もしてしまいました。

「間のことは各々で想像してね」というのも、中々どうして難しい問題なんですよね…

「あと少し、15分長ければもっと作品の良さが伝わったのにな」というのが、正直な気持ちです。

とはいえ、上手くコンパクトに纏められているな、とも感じました。
一回目鑑賞時には気づかなかった伏線も、さりげなく差し込まれていてハッとさせられました。

冒頭の1カット、喜多嶋先生がくれたストロベリーティーや、後半にリオンがオオカミさまを見る目線etc…
(オオカミさまに”ママ”のケーキと言ったのは、そういうこと!?)
短い映像の中だからこそ活きるカットもあって関心しました!

原作を追うだけではなく、一部心情を台詞にしたり、自然なシーンの繋げ方等は流石監督の手腕と言えるんじゃないでしょうか。

全体的な映像クオリティ

これはなんといいますか、良質なアニメを観て目が肥えてるからというのが大きいですが…
全体的に映画としての映像、作画クオリティが若干不安定に感じてしまいました。

こころの部屋のベッドの寸借が違ったり、シーンで等身がややおかしかったり。
あとはオブジェクト一つ一つの影や動きの細やかさ(セル数?)等。
小姑のような重箱の隅のつつき具合ですが…昨今のアニメーションの技術力と比較して情報量はそこまで多い方ではないのかな、と。

というのも(引き合いに出すのは恐縮ですが)、同時期に上映され鑑賞した新海誠監督の最新作「すずめの戸締まり」が圧倒的なクオリティで描かれていたというのもイメージに影響しています。

時期も被っており、かなり話題作だったので、必然どうしても比較してしまう部分もありまして…(こちらも素晴らしい作品です!)

勿論、ダメだとかいうつもりはなくて、ただもし更に映像クオリティが「無駄に高い」とすら言わしめるようなものだったなら…
もっともっと本作の魅力が沢山の人に伝搬するんじゃないかな、という期待があります。

「かがみの孤城」は作品の地力が本当に凄まじいので、尺の部分と合わせて、どうしても勿体ないという気持ちが生まれてしまいました。

もったいないオバケ、来たるッ!!

ただ裏を返せば、本作のジャンル的に大事なのはそこじゃないので、必要十分だとも言えるでしょう。

主題歌「メリーゴーランド」について

優里さんが歌う主題歌の「メリーゴーランド」。
MVも拝見しましたが、歌詞の内容も含め、普通に恋愛に関するものだったりするんですよね。
最初は「かがみの孤城の内容とは…うーん、ちょっと」と正直感じていました。
僕的にはドラマ・ルーキーズの主題歌に起用された「キセキ/GReeeeN」のスタンスを彷彿とさせるなー、と(観てないけれど)
ただ何度も聴いてイマジネーションを膨らませると、不思議と作品にリンクしてきます(笑)
ここのフレーズは、晶子の、理音の、実生の…みんなの想いなのでは?と。
「愛する」とかのワードを「生きる」というニュアンスに捉えてみたり、工夫?するとまた違った見え方がする気がして。
曲自体、制作の意図とは違うかもしれませんが、解釈が変わると盛り上がりも全然違ってきますよね!という話。
なんにしたって、イイ曲ですよね…(号泣)

映画の芝居表現に関して

ある種、一番立場的に言及しやすい部分ではあります。
(関係性や立場にもよりますが、演じ手が他人にとやかく言うのはマナー違反ですが…)
言わんでどうすんねんという感じもするので、あくまで一視聴者として言及させていただきます。

基本的に、各々のキャラクターの方向性は素晴らしいと思いました。

通常俳優・女優さんをやられている方のナチュラルな芝居作りは流石だなと感心しました。
(高山みなみさんや梶裕貴さんの安定感は言うまでもなく!)

ただ、ところどころ絵やシーン負けしていると感じる部分もあったのが正直なところです。

今作は各々が心に痛みを抱えており、不登校という背景から、陰りなく感情が出すぎてはキャラクターが破綻してしまいますよね。
とりわけ、こころやスバルは気持ちを伝えるのが苦手だったり、表に出ても解りにくかったり。
演じるのが非常に難しいキャラクターだと思っています。

ただ、そんな人間でも必死な時は不相応なくらい声を荒げたり、悲痛な叫びとなったり。
絶妙なニュアンスとして声や音に乗っかってきます。

その辺り「ここ凄く大事だから、もっと欲しいのに!」と個人的に感じてしまった部分がちょこちょこありました。
原作に触れ、より自分の中でのキャラクター像の輪郭がハッキリしてきたことでも強く感じましたね。

また先に触れた、省略され欠けた期間や行間での気持ちや時の流れ、圧縮された想いや、
台本のサブテキストといった見えない部分を形にして埋められるかどうか…
これが演者の腕の見せどころであり、役割でもあり、作品のクオリティを挙げる一助になるのだと思います(とはいえ、声の表現としてすごくレベルの高い要求なのですが…)

それから、後半で自分達の外の世界について解析する際、マサムネ役高山みなみさんの代表作、名探偵コナンの台詞ネタがあったのですが…
辛辣なことを申しますと、これは正直やや悪手だったかなぁ、と。

多分アニメファンへのサービスというか、ちょっとした遊び心から入れたメタ演出だと思うのですが…
作風全体を鑑みれば、制作側の自己満足感は否めなかったです。

パロディ満載のギャグ作品ならありだったかも
超絶勝手な推測ですが…高山さんも多分乗り気じゃなかったのでは?

色々言ってしまい申し訳ありません。

ともあれ、作品に触れる人は、一般的に芝居に関わっていない人が割合としては大多数ですよね。
内々で「ベテランだからあの人は凄いんだ」とか「餅は餅屋」とか賞賛し合う雰囲気というのも、事実としてあるんですが、それもちょっと違う気がしていて。

あくまで評価するのは一般の方。
届けられるべきは大多数を占める視聴者であって、作り手のためであってはならないと思うんです。

“芝居はリアルである必要はなく、リアリティがあればいい”というのは一つの考え方です。
言ってみれば、観てくれた・聴いてくれた人が違和感を感じなければ勝ち!御の字なんですよね。
それがコンテンツを成立させるということじゃないでしょうか。

僕自身も毒されているのか、どうしてもまっさらな観方が出来なくなってしまっているので…純粋にマジョリティとしての意見をうかがってみたいですね!

あなたは映画「かがみの孤城」のお芝居と空気感について、どう思いましたか?

疑問に思った点

©2022「かがみの孤城」製作委員会

本というのは自己を映す鏡。
創作であっても、自ずと著者の哲学や思考、知識等が反映されるものだと思います。

そこで「かがみの孤城」を読んでいて僕が感じた、ふとした疑問や作者のパーソナリティに関係しそうな点を挙げてみました!

辻村さんはゲーム好き!

疑問というよりは所感ですが、著者の辻村深月さんは絶対ゲームが好きな方ですね。
原作の作中では「3DS」といった直接的なハード名が出てきます(笑)

またマサムネが典型的なゲーマーですが、主に“ゲームの間”での会話において、度々ゲーマーとしての片鱗や想いが込められてきます。
僕自身ゲーム好きなので解るのですが、ゲームをプレイしない人には出てこないロジックが結構出てくるんですよね。
この辺り、結構マサムネに代弁させている気がしていて。

「小説とか、漫画で泣いたことある?アニメとか映画とかは?」
「じゃ、それとゲームの何が違うわけ。ちょっと想像力が貧困なんじゃないの?」

これ、ゲームで初めて泣いたというマサムネに驚いたこころに対して、マサムネが怒って発した台詞なのですが、激しく同意してしまったんですよね(笑)ほんそれ。

言い方こそキツイですが、この憤り…
わかりみが深すぎる!!

あと綴られている中でも「強くてニューゲーム」は、思いっきりスクウェア・エニックス(旧スクウェア)というか、スーパーファミコン世代でクロノトリガーとかFFである概念・システムですし、多分自分がやってないと知りえないフレーズだと思います。

もしかしたら、過去にこころのように触発された体験があったのかも?

男性へ抱く心象が悪い?

これは映画初見の時点で感じたことです。
なんというか、基本的に男性の登場人物に対するイメージが良くないというか、登場頻度自体も少ないんですよね…。
メインの7人に含まれるリオン、マサムネ、スバル、ウレシノは除くとして、より正しくいえば“成人男性”でしょうか。

まず、映画ではこころの父親は一瞬しか出てきません。
これは「母子家庭ではない」「教育に協力的ではない」というのを示す、記号としてしか使われていない印象です。
原作では多少セリフはあるのですが、基本あまりこころに優しくないんですよね。
理解がないといいますか、嫌味っぽいことを言ってくる(意地悪といってもいいかもしれません)

担任の伊田先生も同様で、映画の方では割とカラッとしていますが、原作では傷を抉るようなことも言ってしまい、それ故こころが衝撃を受けるシーンもあって、先生に対するヘイトが高めです。
(伊田先生はまだ悪気はないタイプなのだとは思いますが…)

アキの義父については言うまでもありません。

こうしたことから「あれ?なんか男に対してぞんざい?」と感じてしまったといいますか…
あえてそうしている感じが強くて。
ひょっとしたら、辻村さん自身が男性に対して抱いている心象が悪いとか、嫌な経験があったのかもしれない…なんて勘繰ってしまいました。

リオンの母親が冷たい

リオンの母親、リオンに対して異常に冷たくないですか?
原作では「あなたのその元気を、少しでも実生に分けてあげられたら」といった言葉をリオンに対して投げかけますが…嫌味としても酷いと思いますし。

そして結果、半ば強制的にハワイの学校に入学させます。

元気過ぎて手のかかる息子だったのかもしれませんが、年齢も幼いし、辛く当たるには何か原因があったんでしょうか。
マタニティブルーを経験していたとしても、大分その後の話ですし。
死んでしまった理由だって、リオンには一切関係ない。

一応、突き放した理屈としては「姉の死を思い出すから」と言えそうですが、であれば寧ろより大切にしようとはならなかったのでしょうか。

この点は親になった経験もなく、詳しく言及は出来ませんが、些か娘の実生へ愛情が傾倒している感が否めなかったです。

あたかもよく描かれる「出来の良い兄に優しく、出来の悪い弟に厳しい」ような、悪辣な家庭環境に見えてしまいました。(リオンは良い子ですが…)

といった風に、なんとなく水森家の在り様に違和感を感じたのですが…どうでしょう?

ハイライト部分の紹介

©2022「かがみの孤城」製作委員会

僕は原作を電子書籍のkindleで読んだのですが、kindleにはハイライトという機能があります。
気になった箇所にマーカーを引いたりメモしたり出来る機能で、例によって活用してみました。

そこで、ハイライトした個人的に胸を打たれたり教訓になった文節を紹介…と思ったのですが、見返して確認してみたところ、想像以上に数があったので…

断腸の思いで10選までしぼり、コメントしてみました!


【其ノ1】

みんな、とても“学校に行けない子”には見えなくて、
普通そうな子ばっかりだった。
特別暗かったり、容姿が悪かったりするわけじゃない。

周りに外されたりする子には見えなかった。

こころが「心の教室」に通う子供たちを見て感じたこと。
悩みを抱えるのに特別な条件なんてない。
心の傷は目に見えないものだからこそ、パッと見で解らなくても、独りで抱え込んでしまう人は多いんだと改めて認識させられました。


【其ノ2】

雨が好きでも、いいのかもしれない。
だけど、学校というところは、そんな正直なことを言ってはいけない
場所だったのだと、こころは、絶望的に、気づいた。

こころが学校で「雨の匂いがする」といった際に、周りの生徒に馬鹿にされた回想。
こころは雨と埃が混じった独特なにおいが好きで、ふと口にした形容表現でしたが、それは周囲からしたら“変わり者”で、頭がおかしいとからかわれてしまった。
人と変わったことを言う個性が爪はじきにされるもの悲しさ。
日本人的とも言えますが、学校に限らずコミュニティや社会における同調圧力について触れていて、やるせない気持ちになりました。


【其ノ3】

許さなくていい、とこころは思った。
私も、あなたたちを絶対に、許さないから。

こころのトラウマとなった、家に真田美織たちが押しかけた際に感じた理不尽な恐怖。
どこまでいっても解りあえない人はいる。
創作や綺麗事で丸く収められない軋轢やリアリティがあり、個人的に嚙み締めたくなる思いです。


【其ノ4】

あの子たちは何も壊さなかったし、こころの体にも傷をつけなかった。
だけど、こころが体験した時間は、そんな言葉だけじゃなくて、
もっとずっと決定的で、徹底的なことだった。

こころが真田美織にされたことは、視点次第で大したことないと捉えられるのかもしれません。
しかし、こころがどう感じたのかはこころにしか解らないし、他者が勝手に判断したり介入しきれるものではないんですよね。
そういう問題じゃない、そういうんじゃないんだ…。
自分にも心当たりがあって胸が痛くなりました。


【其ノ5】

「だって、こころちゃんは毎日、闘ってるでしょう?」

本作屈指の名言ですよね。
喜多嶋先生が家を突然訪れた際に、こころを気遣って発した台詞ですが、どこまでも優しさが溢れていて…思わず涙が出てきます。
悩める全ての人に届けたい言葉です。


【其ノ6】

小学校からの仲良しの子たちもいる、あの雪科第五中。
真田美織なんかのために自分が出ていくことが癪だった。
あの子たちがそうなっても反省なんかせず、むしろどこか誇らしげに、
「うちらのせいで出ていったね」
と笑い合うところが見て来たように思い浮かんで、
怒りと恥ずかしさで吐きそうになったこともあった。

前に進むため、学校を転校することも視野に入れるこころ。
自分にとっての最良の選択をすることは大切です。
ただ、自分が犠牲になることで問題が解決するのだとしても、そのために自分を陥れた相手が笑うことは許せない気持ちは、僕自身も経験から共感しかないです。
変わらない人間は変わらない…こころの憤懣やるかたなさが表れていますね。


【其ノ7】

私は今日、学校の、あの教室に行くんじゃない。
学校に行く――んじゃない。
私は今日、友達に会いに行くんだ。
その場所がたまたま、学校なだけなんだ――と。

「三学期、始業式の日、一日だけ学校に来て欲しい」というマサムネのお願いに対して、自分を奮い立たせて学校へ向かったこころの決意と勇気がこもった一節。
個人的に、映画初鑑賞の際には特に記憶に残った一連でもあります。
不思議と足が前に進むのは、友達を信じているから…そう考えるだけで、胸が熱くなります。


【其ノ8】

「真田さんの苦しさは真田さんが周りと解決するべきで、こころちゃんが、あの子に何かしてあげなくてはいけないなんてことは絶対ない」

続・喜多嶋先生の素敵な言葉。
真田美織には彼女なりの気持ちもあるとした上で、ただそれは気にしてもしょうがないと割り切る強さを説いていますよね。
まずは自分自身のことを考えてほしいという優しさと、人の心を労わる先生の信念も感じられて、ハッとさせられました。


【其ノ9】

本当に恥ずかしいことは、さすがのこころも口にできなかった。
私のことだけはリセットしないで、と、心の中で呟く。
呟いてから、すぐに打ち消す。
別に、忘れてしまってもいい――と。
私がその分、覚えている。
萌ちゃんと今日、友達だったことを。

転校する東条さんへの別れの言葉に添えられたこころの切なる心の内。
美しいですよね。
こんな考え方が出来るこころは強いと思いましたし、なんだか羨ましくなりました。


【其ノ10】

「目指すよ。今から。“ゲーム作る人”。マサムネが『このゲーム作ったの、オレの友達』ってちゃんと言えるように」

別れの直前、スバルがマサムネに向けたメッセージ。
ホラマサと言われていじめられていたマサムネに対し、無気力だったスバルが生きる目的を見つけ、手を差し伸べる希望に満ちたカット。
ここめっちゃ泣きました…
最後にスバルが「よかった」と言うんですが、この一言に込められた気持ちが濃すぎて…。
役者の端くれ的感想としても、本当映画でカットされてたのが惜しいシーンの一つです。


といった感じで、文字通り厳選せざるをえなかったのが心苦しいですが…
紹介ラインナップで同じく感銘を受けたり、共感をしてくれている方がいたら嬉しいですね。
「かがみの孤城」には、もっともっと宝物のようなフレーズが在るので、是非あなたも、原作からお気に入りの言葉を見つけてみてください!

不登校に関して思うこと

©2022「かがみの孤城」製作委員会

少しだけ、作品に関連して自分語りをさせてください。

僕自身、学校という場所に居づらさを感じていた時期はありました。
細かい部分を除いて、より具体的に言えば高校に対しての比重が大きいのですが…

というのも、高校は私立のエスカレーター式で中学から上がってきた生徒が多く、既存のコミュニティが根強くて、かなりやりづらかったんです。

部活をしていたからとか、自身が持つペルソナ(ゲームの方じゃないです)や性格で辛うじてやっていけた感はあります。
あと中高とかって、力のある部活に所属している人が人気だったり、モテたり、幅をきかせて牛耳ってるみたいな謎の空気感あるじゃないですか。

あのヒエラルキーみたいなの何なんですかね…

誰かあれに名前を付けてください!

先生もぶっちゃけ、殆どロクな人いませんでしたしね…
高校の時は「早く大学行きたい」くらいの気持ちでした。

それはさておき。

僕自身、幸いと言っていいのか、登校拒否をするような経験はありませんでした。

ただ小学校と中学校時代、同じクラスで不登校だった子がいました。

仮に小学校はY君、中学はO君としましょう。

Y君は…小学校3、4年の頃だったと思いますが、担任の先生や一部のクラスメイトと一緒に家に遊びにいったり、復帰できるように、クラスぐるみの輪として参加した記憶があります。
(家も近かったので、その後も普通に違和感なく交流もしていました)

O君については中学一年生で、まだ入学したてくらいの頃でした。
確か学期初めに少しだけ学校に来た後、すぐに登校しなくなってしまったのですが…
ある時、同じ学年だった生徒二名から突然声がかかりました。
(彼らは別のクラスでしたが当時仲良くなり、O君とは出身小学校が同じで懇意にしていた様子)

話の内容としては「O君を学校生活に復帰させるため、自分達と一緒に遊園地に行ってほしい」
というものでした。

僕自身、O君とは喋ったこともなく、ほぼ交流が無かったため「何故自分なの?」と疑問でした。
そこで指名した理由について聞いたところ、他に誰か誘いたいか本人に聞いた際「クラスで見ていて楽しそうな雰囲気だったから」とのことでした。

今思えば本当に光栄なことでしたが…
当時の僕は特に深く考えず、ただ「楽しめればいいな」「学校来れたらいいな」くらいの軽い気持ちで臨んでいたと思います。

内容としては、本当にただ一緒に遊園地に行って遊んできた感じでしたが、それがきっかけか学校にも来てくれるようになったのを覚えています。

ただ、思うんです。

当時学校に行きたくないと感じたY君やO君が、何に不安を感じ、どんな気持ちを抱えていたのか。
それはケースバイケースで、本人にしか解らないことだけれど。
僕がいた意味は少しでもあったのかな、とか。

今同じように悩んでいる人がいたとして。
『心の教室』や喜多嶋先生のような人に出逢えなかったとしても。
少しでも寄り添ってあげられる人が近くにいたら、力になれたら、とても素敵なことですよね。

てな感じで「かがみの孤城」に触れて、過去の経験を掘り起こして考えてみるなどしました。
とぅんくとぅんくー!(?)

今の僕なら、違った形で力になれていたのかな…なんて感傷に浸ったり
元気にやってるといいなと思います!

この作品は優しさで出来ている

©2022「かがみの孤城」製作委員会

想いが迸りすぎて、長文駄文になってしまいましたが、いかがだったでしょうか。
少しでも共感する箇所や、作品に興味をもっていただく扶助となっていれば幸いです。

天邪鬼な自分としては、ミーハーっぽい理由で作品に触れるのが好きじゃありません。
逆に言うと、自発的に心動かしたものや触れたものしか、基本僕は評価しません。

その上で「かがみの孤城」をもっと知りたくて、原作を読んで、また映画を観て。
作品に込められた尊さや大切だと思う気持ちが、盤石なものとなったようです。

映画に関しても、2022年で観た中で一番好きですね!

「かがみの孤城」随一の魅力は、どこまでも優しさで出来ていることじゃないでしょうか。

冒頭で書いた項目に少しでも当てはまる、繊細なあなたに。
あまり乗り気じゃなくても、まずは映画館に足を運んでみてほしい。
そして僕と同じように余韻を感じた人は、是非原作も手に取ってみてほしい。
きっとあなたのこころの支えになりますよ!

「大丈夫、大人になって」
いやしかし、良い作品に出逢うと、毎度のことながら“ありがとう”が沸いてきますよね。

今心に燻ぶっている“弱っている人の助けになりたい”という一つの気持ちの欠片が、どんな形かは解らないけれど、なにかに繋がっていけばいいなぁ。

この記事が書けてよかったです。


それでは。(主題歌「メリーゴーランド/優里」を聴きながら涙目にて)

Bonne soirée! ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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